ポトラッチの夜
2008.08.31 Sunday
バンクーバー島のトーテムポール
2008.08.30 Saturday
バンクーバー島のネイティブ
2008.08.29 Friday
猫と薔薇とシャンデリア
2008.08.27 Wednesday
ダイエット大成功!!!
2008.08.22 Friday
西表のターザンを忍んで、お別れ編
2008.08.20 Wednesday
確かに人里離れた生活で困るのは病気や怪我をしたときだ。
「ハブには二度噛まれたさぁ。でも捕まえて食べたから平気よ。腕がこんなにふくれ上がったけど、治ったさぁ」
近くに医者はいない、誰も助けてくれないのである。あたりまえだが、自給自足の生活は自己責任だ。恵勇オジィにとってハブなど怖くないらしい。
「俺の宝物があるから見てくれよ」
そういうとオジィは、大事そうに箱の中から透明なビニール袋を取り出して、たくさんの手紙を見せてくれた。それらはオジィと会えて嬉しかったという感謝の手紙や体を気遣う手紙ばかりだった。中にはクレヨンで描かれたオジィの似顔絵もある。それらを広げ、嬉しそうに説明をしているオジィの顔を見ているうちに、なぜか熱いものがこみ上げてきた。なぜ涙が出そうになるのか自分でも不思議だった。取材中に涙が出るなんて初めての経験である。
二日目は朝早くテントの中で目が覚めた。すでに白い犬はあちこち歩き回っているようだった。体が朝露に濡れている。波は静かに打ち寄せていて、穏やかな一日がくることを告げてくれている。もうこれ以上恵勇オジィには聞きたいことは無かった。一緒にいるだけで、西表島の緩やかな時間の中に溶け込み、あたたかな気持ちで過ごせる。
「山に入るぞ、着いてくるか」
かごを背負い、鎌を持ったオジィが声をかけてきた。
「行きます」
原生林に入れば山菜はいつでも採れるし、イノシシだって獲れるんだそうだ。食材にはあまり苦労することはなさそうである。浜辺の反対側の川にはこぶし大のシジミがいるというので、探しに行ったりしているうちに一日が終わった。恵勇オジィとの楽しいひとときであった。
最終日の朝になり、池田さんの船の音が聞こえてきた。既に荷物はまとめておいた。短期間ではあったが、砂川ターザンの不便だが幸せな暮らしぶりにすっかり魅せられていたので、名残惜しい出発だった。最後にオジィの掘建小屋の前にあるブランコについて質問してみた。
「あれは、子供たちが喜ぶからつけたさぁ」
「オジィまたくるから元気でね」
ぼくの荷物を船まで運んでくれたのでお礼を言ったが、船が岸から離れると恵勇オジィはゆっくり何も言わずに去って行った。後ろ姿はどことなく寂しげに感じた。
「さよなら、西表島のターザン」
残念ながらこれがオジィとの最後の別れになってしまった。数年後、西表島にまた取材で行く事になり、久しぶりに池田さんに連絡すると、オジィは亡くなったと聞かされた。池田さんが船で近くを通ったとき、いつもなら音を聞きつけて小屋から出てくるのにその日は現れなかった。おかしいと思い、小屋をのぞいたら倒れていたそうだ。宮古島からおにいさんが来て、遺骨を引き取って行ったそうだ。その後、お兄さんが恵勇オジィの載った「田舎暮らしの本」が記念に欲しいという事でお送りした。
これには後日談がある。
2004年の四月に久しぶりに網取湾の珊瑚礁の撮影に行く事になった。懐かしさもあり、恵勇オジィのいた浜に向かって船を進めていくと、かつて恵勇オジィが現れた浜から、棒を持った全裸のオジィが現れた。それもこちらを威嚇するような仕草をしている。
恵勇さんの遺した小屋に住み着いた別のオジィがいるのだ。たぶん畑や小屋をそっくり引き継いでいるのだろう。しかし、彼はオジィの墓前に花の一本でもあげて、引き継ぐ事のお礼でも言ったのだろうか。もしそうでないなら、今からでも花をあげてほしい。
そして、砂川恵勇ターザンの優しい心を汲み取っていただきたい。浜はみんなのものなのだ。全裸で暮らしていたら、毎年楽しみに遠足でやってくる子供たちが、オジィの浜に来れなくなるではないか。オジィがせっかく作ったブランコも寂しく揺れるだけになる。
西表のターザンを忍んで、生活の知恵編
2008.08.19 Tuesday
そんな事を感じながら、浜辺にいるとオジィが復活してきた。アルコールが抜けたせいか少し元気が無いようだった。
「オジィ、風呂湧かしてあるよ、入ったら」
「後でいいよぉ、いま入りたくないさぁ」
「そんなこと言わないで入りなよ、気持ち良いからさ」
嫌がっていたオジィも、何度も進めると、判ったと言いながらシャツを脱いでドラム缶のお湯につかる。無駄な肉はついていない。ちょっと熱かったのかな。顔が真っ赤になった。
「ドラム缶の風呂は涌かすのに時間かかるね」
と話すと、
「なんでかねぇ、そんなことないはずよ」
という。そこで、僕のやり方を教えると、
「それはタキギがもったいないさぁ。少し水を入れて沸かしてよ、冷たい水をたせばちょうど良い湯加減になるさぁ。頭を使えよ」
怒られてしまった。
夕方になってすっかり元気になった恵勇オジィは
「おい、これから網を仕掛けるぞ、美味い魚が獲れるからな。手伝え」
と言いはじめた。ご馳走してくれるらしい。
「ゲッ、オジィ。魚は食べたくないんだけどなぁ」
と思いながらも、ボートに網を積み込むのを手伝った。西表島でどんな魚が獲れるのか楽しみでもあったからだ。
オジィの漁は、満潮時にボートで4、50m沖まで行き、網を仕掛け、干潮になると仕掛けた網のところまで歩いて行って魚を拾い集めるという、西表島の干満の差の大きさを利用した、本当に単純な漁だった。
干潮は夜10時頃、星明かりでうっすら見える水平線に向かい、オジィの持つ懐中電灯について潮の引いた砂浜を歩いて行くと、先ほどまで海中にあった網が黒々と横たわっている。ワクワクしてきた。網をたたみながらチェックしていくと、ボラやタマンなどの小魚がよくかかっていた。熱帯魚のようにきれいな魚が多いのかと思いきやそうでもなかった。大漁とまでは行かないが充分な量の魚が獲れたので、オジィも満足そうだ。
「明日は刺身だなぁ」
嬉しそうにつぶやく恵勇オジィ。僕は覚悟を決めなければならないようだ。
翌朝になり、昨晩獲ってきた魚をとうとう刺身にして食べることになった。ボラは悪食で何でも食べる魚なので、河口にいるボラを釣り上げると変な臭いがして食べる気にはならない。でも、恵勇オジィが調理する網取湾のボラは、臭みもないし、身の色もきれいなボラだった。しかし、覚悟を決めたはずなのにぼくはやはり食べられなかった。オジィは食えというが、昨日のトイレの光景は強烈である。どうやらぼくはターザン生活には向いてない。
「オジィ、一人だと寂しいねぇ」
「だっからよぉ、ときどき小学校の子供たちが遠足でやってくるからさぁ、池田も来るさぁ」
「オジィ、小屋は一人で建てたのかな」
「そうさぁ、この小屋は二軒目だよ。前のは台風で飛ばされたさぁ。池田に四寸の柱を持ってきてもらったから、今度は大丈夫さぁ」
うーん、怪しい物だ。
オジィ自慢の掘建小屋は、中にしきりは無くおおよそ10畳ほどの広さだろうか。三分の一は土間になっていて、残りは板敷きのシンプルな部屋だ。土間には手作りの竈があり、乾燥させた雑木を常に燃やし、煮炊き用の火を確保している。すき間だらけなので換気の心配はないが、ムカデやハブが簡単に入ってこれる。今夜は外にテントを張って寝たほうが無難なようだ。もちろん電気は無いので、夜はロウソクの炎が唯一の灯りになる。それ故に、火はなるべく消さないように努めているそうだ。池田さんも話していたけど、網取湾の航路から恵勇オジィの小屋の煙が見えると、元気でいるサインと安心するらしい。森の中からたなびく煙が元気の目安なんて、ほんとに映画のような生活である。
西表のターザンを忍んで、暮らし編
2008.08.18 Monday
ところが、これがなんとも理解しがたい話になってしまった。
「洗面所で顔を洗っているとなぁ、機銃掃射の弾が飛び込んできたさぁ」
「大人の拳くらいあるシジミが採れるさぁ、ここでは何でも穫れるのよ」
「女房とは別れたさぁ」
「東京にも住んだことがあるぞ」
「結婚した人がいるよ。宮古で生まれたさぁ」
「大きなサメが湾に入って来たぞ」
酔ってきたせいなのか、話の時系列が次第にめちゃくちゃになってきた。うーん、確かに飲ませない方が話は分かりやすいはずだ。と、突然「相撲を取ろう」といいだした。小柄な体にはエネルギーが一杯詰まっているようには見えないが、話しているうちに興奮してきたのかも知れない。鼻をフンフン鳴らしながら立ち上がり、四股を踏み始めた。囃し立てるように、さきほどの白い犬が周囲を走る。これは困った事になったと思った。がしかし、予想外にも彼はくるりと振り向くと、そのまま小屋に向かって行って、横になって寝てしまった。昼間から酔って休んでも、誰も文句は言わない自分の時間だ。これがオジィのペースなのだろう。ホッとしたけれど、一緒に休む訳にも行かないので、オジィが休んでる間に周囲を見て歩く事にした。飼い主が寝てしまい、手持ち無沙汰になった白いもおとなしくついてきた。
そこはまさにオジィの聖域であった。人間の生活に必要な物が、シンプルにそしてきれいに整えられていた。わりと几帳面な性格のようだ。想像していたのはもっといい加減なものであったが、それぞれの用途に合わせて、場所や道具の位置が考えて作られている。生活に一番重要な水は、森の奥から川となって豊富に流れ出ているので何の心配も無い。しかも、亜熱帯の原生林から滔々と流れてくる小川の水は澄んでいて、飲料水として使用しても問題はなさそうであった。川の上流には、ドラム缶を利用した風呂が作られている。ぼくは、オジィが起きて来たら風呂に入れて、少しでも酔いを醒ましてもらいたいと思い、ドラム缶に川の水を満杯に入れ、タキギに火をつけてみた。けっこう重労働だ。しかも、水温はなかなか上がらず、時間とタキギばかりを消費してしまう。スイッチ一つでお湯が出てくる都会生活に慣れてしまったために、風呂に入る準備が大変であることを忘れていたようだ。子供の頃、母親が風呂を沸かすときに、火吹き竹を持たされて手伝ったことを思い出した。
最下流には川の流れを利用したトイレが作られている。まさしく文字通りの水洗トイレだ。ぼくも翌日試してみたが、自然の中でするのはなかなか快適だった。しかし、つかむところがないので不安定である。真下の水面をのぞくと小魚が集まって来て、僕の排泄物に群がっている。この光景を見たら、網取湾の魚を食べる気にはならないね。それと、台風の時などは使用不可能だ。強い風雨であおられたら、出るものも出ないに違いない。
小屋から5、60mほど離れた平坦なところは、きれいに開墾されていて、100坪ほどの畑には数種類の野菜が作付けされていた。一月なので沖縄らしく葉もの野菜を作っているようだ。西表島の人里離れた原生林のなかで肥料とかどうしているのだろう。意外に農業の知識もありそうだ。
一巡してもとの浜辺に戻って、小屋をのぞくとオジィはまだ休んでいた。
掘建小屋の外壁にはたくさんの漁具や釣り竿やウェットスーツ、鎌や鍬などの道具類が掛けられている。浜に繋いであるボートはオジィがもらった物だと言っていた。ここに掛けてあるものは、ほとんど拾ったりもらった物なのだ。お金など無くてもこれだけの道具がそろうなんて、日本はやはり豊かな国だよな。電気も電話も水道も無い西表島の秘境での、金銭にはまるで無縁な生活であるにもかかわらず、なんだか充実した暮らしをしているように見える。
西表島のターザンを忍んで、出会い編
2008.08.17 Sunday
その時、船の音を聞きつけた小柄なオジィが、モクマオウの森の中からひょっこり姿を現し、足早にこちらに向かってきた。後ろには小さな白犬も追いかけるようについている。小型犬の雑種のようだが、尻尾はくるっと巻きあがっていて、愛くるしい顔つきである。オジィの飼い犬なのだろう。
ということは、このジャングルの浜辺に一人と一匹で暮らしているわけだ。
現れた短髪、白髪頭の小柄な初老の男性が、西表島のターザンこと砂川恵勇さんだった。顔に刻み込まれた深いシワと日焼けして真っ黒な皮膚が印象的で、西表島の亜熱帯気候と共生している様子が感じられる。六〇代後半ぐらいに見えるが、動きはきびきびしている。見かけよりも実年齢は若いのかも知れない。漁師に年齢を聞くと意外に若い人だったりするので驚くことがあるけれども、海のそばで暮らすと外見は老けて見えるのだろうか。
さて現れた恵勇オジィ、服装はよれよれの紺色の丸首のシャツに、伸び切って茶色に変色したブリーフ一丁である。それでも想像していたよりは身ぎれいな印象だった。
「=#@*;<~・・!」
強い訛で何か話している。聞き取れないので船縁から降りる時に、オジィに気を取られた。
「しまった」
その瞬間バランスを崩し、白いレジ袋が船の縁にぶつかり、お土産に持ってきた泡盛の瓶が割れてがあふれた。あたりに漂う泡盛の強い香りに、オジィはまた
「#@¥~@%'$・・」
と大声をだした。どうやら、なんてもったいないことだと言っているらしい。
砂浜におりて、振り返って池田さんを見るとしょうがないなぁという顔をしている。
「二日後の朝、10時に迎えにくるよ」
と言い残し、船をUータンさせるとコーラルグリーンの海の中に去って行った。
オジィに挨拶しようと思って近づいて行くと、彼の心はわずかにビニールの中に残っている泡盛に集中していた。オジィの目は早くそれを飲ませろと訴えている。こうなったら池田さんのアドバイスも役に立たない。挨拶もそこそこに、なるべくこぼさないようオジィの後を追いながらそろりそろりと歩き、掘建小屋にたどりついて、彼が用意したぼこぼこのアルマイト鍋に移した。それで安心したのかオジィの顔に初めて笑みが浮かんだ。そして飲み始めた。たちまち機嫌の良くなったオジィは取材をオーケーして、いろんなことを語りはじめたのだった。
こうして二日間のオジィとの生活が網取湾の砂浜で始まった。
つづく
西表島のターザンを忍んで、訪問編
2008.08.16 Saturday
亜熱帯の秘境の島、西表島には、島の7割を占める亜熱帯性植物に覆われた原生林の中を、てくてく数時間かけてヒルやハブと闘いながら歩いて行かなければ、とてもたどり着けない自然の浜辺が数多くある。
(?)の一人だった。
八重山は一月だというのにゆうに20℃を超える気温で、ちょっと歩くとじっとり汗ばむような日だった。
「すみません。西表島のビーチに住んでるオジィを知りませんか」
石垣島の港近くにある竹富町の町役場で尋ねると、「ああ、それなら商業観光課へ行くように」と奥の机を指差された。ちょうど昼時でまばらな人影のなか、奥から現れた一人の青年が笑みを浮かべて相手をしてくれる。
「オジィは網取湾の奥の浜辺に暮らしてるさぁ。西表島のターザンと呼んでるよ。このまえテレビのニュースで紹介されてから有名人さぁ」
そのテレビを見た友人から、面白いオジィが西表島にいると話を聞かされ、宝島社の企画に出してみたら特集で紹介することが決まり、僕は石垣島にやって来たのだった。
真っ黒に日焼けして人の良さそうな笑顔の青年に、取材したいので会いたい旨を話すと、やや困惑した表情になり、オジィの状況を教えてくれた。彼によれば電話など無いので連絡は無理だという。それでも、池田海運さんが近況を知っているはずなので、社長の池田さんに連絡してみたらと教えてくれた。すぐに会えるものと思い予定を立てていたのだけれど、どうも様子が違う。僕のがっかりした表情を見て、取材を断わることは無いはずと元気づけてくれた。さらに
「会いに行くなら、安いのでいいから泡盛のお土産を持って行ったらいいさぁ」
とアドバイスしてくれた。
どうやらオジィはかなりの飲んべえらしい。青年は他にも、国有林の中に勝手に住みついていること、悪いことはしない人の良いオジィであること、オジィのいる浜まで近くの村から歩いたら3、4時間はかかること、そして白浜の村にたまに顔を出すことなどを教えてくれた。
さっそく、町役場で紹介された池田さんに連絡を取ると、取材は可能だが今日中に網取湾のオジィの浜に行くのは難しく、明日の早朝に白浜港に来てくれとのことである。とりあえず、これで一安心だ。さっそく、大急ぎで石垣港の離島桟橋へ向かった。西表島に行くには、安永観光と八重山観光フェリーの二つの船会社から、上原港行きと大原港行きの定期船が出ている。どちらの船会社も到着時間を競っているので、航行時間に大差はないのだが、僕は速そうに見える八重山観光フェリーの高速船で西表島に渡ることにした。しかし、この時期は天候と風向きによって到着する港が違う。上原港なら白浜は近いので移動時間が少なくて済むけれど、風向きが悪く、大原港にしか高速船が入港出来ないようだと、西表島をぐるりと4分の3周回ることになる。
結局、予想どおり高速船は大原港に入ることになった。仕方が無いので、港からは路線バスで白浜に向かうことにする。潮風で錆の浮いた古びたバスは1時間30分ほどかけてゆっくり島の中を走る。窓からは、イリオモテヤマネコ目撃注意の看板が見えたり、小浜島が遠望できたり、亜熱帯の南島の風景が展開されて楽しいものだった。冬だと言うのに、亜熱帯の湿気を帯びた生温い風が気持ち良いので、窓を開けていても寒さは感じない。
白浜に着いたときには、もう夕方5時を過ぎていた。東京ならとっくに太陽が沈んで暗くなっている時間だが、まだ明るく陽が残っている。なんだか時間を得した気分になった。冬の東京からやってきたので、セーターなど厚着をしてきたのに、島人は短パン、Tシャツにビーチサンダルという軽装ですたすた歩いている。
港で教えてもらい予約した金城旅館に着くと、オバァは
「急に寒くなったのでよ、ストーブ用意したさあ。先週は30度を超えていて暑かったのによ」
などと、話している。確かに亜熱帯の島だ。
この時期は、北海道では雪が降っているのに、西表島ではTシャツ姿である。日本は南北に長いんだなぁーと実感せずにはいられない。オバァには悪いが、僕にはとてもストーブが必要な気温には感じられなかった。一年の平均気温が24度を超すという西表島はそれほど苦労せずに冬を過ごせる。だから、砂浜暮しもできるのだろう。四季を通して軽装でいられるのは、寒さが苦手な僕にはとてもうらやましいことだが。
明日訪ねるオジィの情報を少しでも得ようと、オバァにいろいろ尋ねてみると、
「恵勇オジィのことかね。ときどき村に顔を出すさぁ。気の良いオジィよ、二、三日前もその辺歩いてたさぁ」
オバァは良く知っているようだった。オジィの名前は砂川恵勇というらしい。以前はこの村で暮らしていたが、数年前から網取の浜に住み着いたことや、魚の標本作りをしていたことなど話してくれた。民宿の玄関にかけてある立派なヤシガニの標本は、砂川恵勇さんの作だと言う。見事なヤシガニの標本に驚いた。いったいどんなオジィなのだろう、ますます興味がわいてきた。
次の日の早朝、薄暗くて誰もいない白浜港のバス停横の船着き場に、カメラ機器を携えて立った。これから取材に入るので気合いを入れなければならない。
しかし、周りを見渡しても、人のいる気配はない。岸壁に停泊している船で出航の準備をしている船も無い。こんなところに約束通り現れるのだろうか。不安な気持ちにかられそうになった。
「ドッドッドッ」
遠くの島影から軽快なエンジン音が近づいて来る。小さな白い船外機に乗った池田さんが約束した時間通りに迎えに来てくれた。沖縄では珍しく時間ぴったりに現れたので、ちょっと驚いた。
「荷物をこっちに渡せ。落ち着いて飛び移れよ、気をつけてな」
船乗りらしく、真っ黒に日焼けした顔。柔和な目だが、どこか厳しい表情も持っている。
「よろしくお願いします」
「ああ、東京から来たのか。砂川オジィの取材だね」
オジィのいる網取湾の浜までおよそ20分の船旅だ。でも、これからの取材を前に緊張感が高まってきて、操船する池田さんにあれこれ話しかけていた。
池田さんの話では、畑を開墾して何やら作物を作り、拾ってきた網で魚を捕り、原生林から流れ出る水で煮炊きをしているとのことだ。電気など全くないので、完全な自給自足だと言う。ときどきオジィに出会った旅人が手紙や差し入れを送ってくるので、池田さんがその窓口になり、網取湾の近くを通ったときに届けているそうだ。高齢者の隠れ里生活なのでそれなりに心配しているようであった。
船は順調に進んでいるが、しばらくすると海が荒れてきた。サンゴ礁の外に出たようだ。
「しっかり捕まっておれよ、波かぶるからよ」
船が通称ゴリラ岩を回り込むと波も静かになり、美しいコーラルグリーンに染まった海が待ち構えていた。網取湾だ。あまりの美しさに一瞬ぼー然とした。こんなに美しい海が日本にあるなんて知らなかった。池田さんは手慣れた様子で船を慎重に操り、見事な珊瑚礁を避けながらゆっくり砂浜に近づいていった。
砂地に乗り上げるぎりぎりのところまで船を近付けると、ここから直接砂浜に飛び降りろと合図をした。しかし、僕が手にした白いビニール袋に、泡盛の瓶が入っているのに気がついた彼は、
「話が聞きたかったら泡盛飲ませたらだめな分けさぁ、隠しといた方がいいさね」
と言った。
次回につづく
歩け、歩け!
2008.08.11 Monday