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2022.09.20 Tuesday

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    琉球古道

    2009.08.31 Monday

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      「久茂地川にモノレールが映える」

      夏休みの最終日に沖縄入りというスケジュールは初めてだ。しかも総選挙の日。なんだか慌ただしい、かと思ったら沖縄は沖縄だった。

      真夏の暑い日差しに行き交う人たちはのんびりと動いている。ぼくも奥武山公園まで一時間ほど散歩に出かけたが、木陰でユンタクしているオジイやオバァは、日除けの帽子をかぶりサングラスをかけて仲間と夢中で何事か話している。

      なんだか楽しそうである。いつもと変わらぬ沖縄の風景だった。でも選挙の結果では沖縄も変わるだろうね。


      「奥武山公園のホウオウボク」

      さて、今回の沖縄取材は琉球古道である。僕の写真展のために考えたタイトルが「琉球古道」だ。これまでに200箇所ほどのロケハンを終え、今回は残っている北部の古道のロケハンをする予定にしている。

      タイトルが沖縄文化や歴史に関係するだけに、撮影するのにも下調べが不可欠なのだ。いい加減な考証で写真展は出来ない。しかも、観光資源としてうってつけの素材だから、いろんなところから興味があるので、話を聞かせて欲しいと声がかかっている。

      まだロケハン中なのにこんなことは珍しい。それだけ沖縄文化や歴史に興味のある人が多いのもあるだろうが、不景気の時代なので新しい観光資源の発掘が沖縄としても急務になっている。七月は沖縄入域観光客数も持ち直したと話していたが、八月は新型インフルエンザの影響もあってまた減ったようだ。

      国際通りを歩いても以前の元気良さは感じられない。沖縄県ものんびりしていたら、熱海や宮崎県のようになる。街を歩くとそんな不安がひしひしと感じられた。

      モノレールに乗って

      2009.08.30 Sunday

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        「モノレールからの眺め」

        今日から沖縄だ。

        浜松町からいつものようにモノレールに乗ったら、ガラガラの車内でびっくりした。夏休み最終日、それも週末だから結構人がいるだろう、と思っていた。予想は見事に外れて、乗客はそれぞれ好きな場所に座って外の風景をながめていた。

        もちろん僕もカメラ機材を横の席に置いて、モノレールの沿線風景を楽しむことにした。


        「意外と面白い風景が・・・」

        浜松町から羽田までのモノレールからの風景は、東京湾を埋め立てた地域をガタガタと走りすぎて行くわけだが、コンクリートのビルと空き地が交互に現れ、あまり生活感が無いんだけれど、途中からは結構団地みたいなマンションや、なぜか生活感のある小さなビルが現れて興味をそそられた。


        「空いていた理由とは」

        そうそう、以前羽田からモノレールで帰るとき、トンネルを出たら夕日に映える河口が現れ、その川に砂州が出来ていて鳥が一杯集まってるのが見えた。地名が分からないのでどこだとは言えないが、なかなか面白い風景だと思った。

        いずれモノレール沿線の風景を写真に撮ることも考えてみよう。何か新発見があるかも知れない。

        あれっ、車内放送で後続の急行待ちをするために停車すると行っている。車内が空いていた理由は、各駅停車だからということなのかな。

        なんだかなぁーっ。

        明日からは沖縄情報紹介します。

        ドームの恋活神社

        2009.08.26 Wednesday

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          「ご利益はいかに・・・!」

          つい先日まであったドームシティの施設があっという間に神社に早変わりした。これには近くをよく散歩している僕も驚いた。

          だって神社だよ。宗教施設だ。

          ピンク色の鳥居と狛犬の代りに♥マークの像である。神社も安くなったものである。誰が考えたのか知らないが、遊びだから目くじらたてないでよと言いたげだ。別に僕は本当に怒っているわけじゃないが、こんなところでお祈りしても恋がうまく行くはずがない。

          ドームシティもラクーアが大成功しているのだから、どうせ夏休みに子供向けのイベントするならもう少しアイディアひねれば良いのに・・・。

          「おみくじ、あるいは願い事の縁結び」

          なんでもハート形にすれば良いのかな。遊びだからと言ってしまえばそれまでだけれど、馴染めない風景だった。この神社はまるで自販機化したお手軽神社だ。これからはどんな神社があらわれるのか。日本人の能天気な宗教観がこんなところではっきり分かるのだった。


          バンクーバーの朝

          2009.08.25 Tuesday

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            「ジョイスの朝」

            バンクーバーなんて嫌いだ、と昨日書いた。その理由は行けば分かるが街が暗い。いつも雨が降っている印象だ。それから、空港でいつもカスタムに止められる。荷物を開けて徹底的に検査をされる。

            仲間と行くとなぜか僕だけ呼び止められるのだ。「どうしてこんなにカメラがあるのだ」、と必ず聞かれるのだが、「フォトグラファーだからいつでもカメラは持って歩いているのだ」、と答えていた。

            でもそう答えると話がややこしくなることが分かり、今では「趣味だから」と答えることにした。係員は納得した顔には見えないが、わりと早く解放してくれる。なぜバンクーバーの空港で僕だけ止められるのか理由は分からないが、友人によると顔つきがとても怪しいからだと笑っていた。

            「夜のモーテル」

            さて、いつもレンタカーを借りるとバンクーバーまで行って、安ホテルを探すのだけれど、
            一度モーテルに泊まったらとても便利だったので、空き部屋ありの看板探しながらドライブすることにしている。

            街の様子も分かるしね。

            嫌いとはいっても、一つだけバンクーバーで感心したことがある。開高健が何かの雑誌に書いていたけれど、水が美味しいことだ。水か豊富なだけではなくて美味しい。開高健は世界一美味しい水道水と書いていたが、確かにそうかも知れない。

            でもなんであんなところでオリンピックやるかなぁ。






















            久しぶりの自販機写真です。

            2009.08.24 Monday

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              「ミロのヴィーナスと自販機」

              共同印刷近くの路地裏を歩いていたら面白い光景に出会った。この辺りは安い自販機がけっこう多くて便利なのだが、玄関の隙間を利用して設置された小さな自販機を、背後からそっと見守るミロのヴィーナスがいた。

              しかし、ミロのヴィーナス像を玄関に置いてある家も凄すぎる。個人の家なのか商業施設なのか分からないが、あきらかにヴィーナス像は持て余されているような気がする。

              いまの役目は自販機を見守るぐらいなのだろう。なんだか面白いけれど、寂しい光景でもありました。

              「ホームの自販機」

              ある日酔っぱらって西武多摩川線に乗り、武蔵境から中央線で水道橋に向かった。三鷹で総武線に乗り換え、ガラガラの車内でゆっくり帰ることにしたが、発車まで暇だったので携帯で写真を撮ってみた。

              ドアの向こうにある自販機が窓越しに光っていて、自己主張しているように見えたので、一枚撮影してあげた。写真ではなんだかよく解らないかも知れないが、光っているのが自販機です。ガラガラの車内とホームで無駄に光る自販機もなんだか可愛そう。

              「西武多摩川線もガラガラでした」

              夜も遅かったせいか是政駅から乗った車内はガラガラでした。近頃は車内で撮影すると盗撮とかいわれて捕まるらしい。別に写す理由は無かったのだけれど、それぞれの世界に浸っているのだなぁと思い一枚。

              電車の中は混んでいても、ガラガラでもいろんな世界が見えるので面白い。ついつい撮りたくなってしまいます。

























              バンクーバーで見つけました。

              2009.08.23 Sunday

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                「日本語英語?」

                カナダに移住した友人家族が、バンクーバーで日本料理店をはじめて大成功していた。その話を聞いて、ロブソンストリートの港に近い彼の店を訪ねていった。噂どおり、店内は観光客や地元の人々で一杯だった。

                ところが、肝心の友人の姿が見当たらない。店員に尋ねたら、なんと店を売却して近くに「金太郎」というラーメン店をオープンしたというではないか。

                そういえば、三鷹にいる頃から粉物の商売をしたいと言っていた。そば、うどん、ラーメン店などを粉もの商売というらしいが、原価率が低いので儲かるのだと話していたのを思い出した。

                店に行ったが本人は不在だった。

                帰りに本屋によって見つけたのが、上の写真集だ。日本を旅したカナダ人が、日本人の着ているTシャツや看板に書かれている英語が変だ、と気が付き取り集めた写真を一冊の写真集にした。友人のアメリカ人に聞いたら表紙の写真など、英語圏の人間には恥ずかしくて着れないTシャツなのだとか・・・。
                 
                 なかには面白い日本語英語もある。見つけた方は記録に残しておくと良い。いつかまとまったら本になるかも知れないからね。しかし、知らないということは凄いことをしでかすのだな。

                ところで、著者のサリー・ラーセンの視線にはどこか差別的なものを感じる写真集でもある。資料として購入したが、写真作品としてのレベルはかなり低い。いわゆる企画もの写真集といえる。次はもっとましな写真集を出したらと書いておこう。

                来年はバンクーバーオリンピックがあるので、みなさんバンクーバーに行ったら「金太郎」のラーメン食べに行って下さい。カナダで一番美味しいラーメンという噂も耳にした。
                ただぼくは暗い町並みのバンクーバーはどうしても好きになれない。なんであんな都市でオリンピックやるのだろうね。




















                写真展ボストカード

                2009.08.21 Friday

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                  「写真ギャラリーMoleのポストカード」

                  20年近く前から写真展の案内に送られてくるポストカードを、捨てられなくて集め始めた。
                  それがたまりにたまって2000枚ちかくになってしまった。

                  仕方が無いので、ファイルに整理しながらスキャンしデータにとっている。いくらスキャンしてもちっとも枚数が減らないので、いい加減嫌になってきた。

                  それでなんとか目標を作ればやる気が出るかも知れないと思い、新しくブログを立ち上げてそちらでポストカードコレクションの紹介している。

                  ブログの名前は「写真的散歩のツボ」と名付けた。興味のある人はのぞいてみて下さい。
                  写真が多いのでちょっと重いブログかも・・・。

                  「今道子さんの写真展ポストカード」

                  今さんの17年前に開催した写真展のポストカードもありました。確か自費出版で「EAT」を出したあとに一気に人気が出た頃に開かれた写真展だったように記憶している。その後の活躍はみなさんご存知の通りだ。日本を代表する写真家になった。

                  「石内 都さんの写真展ポストカード」

                  日本を代表すると言えば、石内都さんの作品も人気である。このポストカードの写真展は1992年に銀座のギャラリー「手」で行なわれた時のもの。モノクロームで粗い粒子の石内さんの作品がよく解る。

                  この他にも思い出に残るポストカードがたくさんある。

                  例えば下のポストカード。
                  「伊志嶺隆遺作展ポストカード」

                  1991年に那覇で写真展を行なった。オープニングパーティで紹介されたのが伊志嶺さんだった。とても物静かな方だったように記憶している。その時は挨拶程度の言葉をかわすだけだったが、じっくり僕の作品を見ている姿が印象的だった。

                  そのうちゆっくりお話ししたいと思っていたら、人づてに事故で亡くなったと聞かされびっくりした。その後故人の友人たちが四谷のギャラリーMoleで遺作展を催した。

                  その時にはじめて伊志嶺さんの作品を目にしたのである。

                  どれだけ紹介出来るか分からないけれど、こんな調子で2000枚のポストカードを整理し、プログにアップしているわけです。






                  ちょっと小休止

                  2009.08.20 Thursday

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                    「ベランダのゴーヤー」

                    6月の終わり頃に知人からゴーヤーの苗をいただいた。

                    我が家のベランダの片隅に置いて、毎日水をやっていたら突然黄色の花が咲きはじめて、これはひょっとしてゴーヤーの実がなるかもと期待していたら、写真のように小さなゴーヤーが一昨日あらわれた。

                    まだ3センチほどの大きさだが、大きくなるのが楽しみだ。

                    苗をくれた知人のゴヤーはまだ実がつかないらしい。こちらが先に実をつけたので、写メールして教えてあげた。なんで実がならないのか不思議がっていたが、僕は我が家の方になんで実がなったのか、逆に不思議だ。

                    実がつくには受粉しなければならないはずだが、11階の我が家のベランダに一体どんな昆虫がやって来たのか興味深い。そういえば時々蝶が風に流されて来たりするので、気が付かないだけでけっこう昆虫は頻繁に飛び交っているのかも知れないな。

                    毎日いろんなことをやっているので、ベランダのゴーヤー見ながら一休み、実に都会的な自然鑑賞となりました。

                    瀬底島のリルワット族-最終回

                    2009.08.18 Tuesday

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                      前回まで

                      とうとう沖縄でもサッカー試合には勝てず、2分10敗になったリルワット族のサッカーチーム、コヨテーズ。でもすべての試合を終えて、瀬底ビーチで遊ぶ姿は生き生きしていた。
                      そんなとき喜名昌吉さんのコンサートで彼らの村の歌と踊りを披露することになったのだ。

                        


                        ついにこの日が来た。これから奥武山競技場で行われる、喜納昌吉さんのハイサイアトランタというロックコンサートにゲスト出演する。子供達のなかでマーロンが舞台の前で踊り、青年達が後ろに一列に並んで太鼓を叩いてリズムを取り歌う。マーロンはイーグルダンスを披露することになっていた。ぼくも彼らのイーグルダンスは初めて見るので楽しみにしていた。控え室で出番を待っていたら次々に有名なゲストがやって来た。ジュディ・オングさん、高石友也さん、まだ元気だったドントさん等々。

                       「あのきれいな人は誰?」

                       「台湾出身のシンガーだよ。ほかにも一杯有名なシンガーがいるよ」

                       「じゃあ僕たちもその仲間なのかな」

                       「そういうことだね」

                       「すごいや」

                        子供達は周りを見ながら興奮していた。

                       「次のゲストはリルワットのみなさんです。大きな拍手をお願いします」

                        いよいよ出番がやって来た。場内のアナウンスはカナダからやって来た先住民たちが民族ダンスと歌うことを紹介している。次々に舞台に駆け上って行くメンバーの顔はさすがに緊張していた。

                       「ワァーッ、パチ、パチ、パチ」

                        大きな歓声と、拍手が聞こえてくる。舞台の上にみんながそろった。一瞬静まる会場。

                       「ドン、ドン、ドン」

                        リロイの太鼓の音を合図に歌とダンスがはじまった。たぶん、初めて生で見たであろうカナダ先住民の歌とダンスは、沖縄の人々の暖かい拍手が大成功だったことを知らせてくれた。

                        その夜は喜納昌吉さんと出演者の打ち上げパーティにも顔を出して、メンバー達は一晩中大騒ぎの那覇の夜だった。

                        いよいよ最終日。メンバーはそれぞれ帰国の準備に忙しい。家族や友人へのお土産を買い求めるために、三々五々と那覇の街に出かけて行った。子供達は留守番である。知り合った日本のガールフレンドに一生懸命電話をかけている奴もいる。うまくいけば良いけどこればかりはどうしようもない。

                        ジョッシュが寂しそうな顔でやって来た。買い物に行きたいのかな。

                       「トミー、見せたいものがあるんだけど、ちょっと来てくれ」

                        ホテルのテラスにあるベンチまできて、

                       「ここに座っていてくれ、ちょっと部屋までいってくる」

                        と言い残して姿を消した。小さなバッグを手にして再び現れ、この前は見せようとしなかったプラスチックのケースから写真を取り出した。それは彼の家族の写真だった。

                       「これはぼくのお母さん、これはお父さん。こっちがみんなで撮った写真だよ。いとこの写真もあるから見せるよ」

                        次々に自分の血族の写真を広げて説明しはじめた。なぜぼくに見せる気になったのか判らないが、話している彼の顔は真剣だった。一ヶ月にわたる日本の旅でいろいろなことを感じとって、たぶん彼は自分のことを良く知ってもらいたかったのに違いない。彼の言葉を聞きながらぼくも旅の終わりが来たことを悟った。

                       「ジョッシュありがとう。君のことは一生忘れないよ」

                       「ぼくもだよ、トミー」

                       

                        彼らはあっという間に那覇空港から笑顔で去って行った。「コヨテーズ」の日本遠征は成功したのだろうか?飛び去る飛行機を見ながら、考えてみたがその答えが僕には解りようもなかった。

                        

                       

                        それから4年後、2000年の秋にバスのドライバーをしてくれた津川君と一緒に、リルワットの村を訪れた。アルビンの家を目指し、村の中を走っていると道の中に倒れている男がいる。ヒップだった。酔っているらしい。どうしたヒップ、こんな明るいうちから酔いつぶれるなんて何があったというのだ。

                       「やあ、トミー。今日はぼくの誕生日だ」

                       「ヒップ、久しぶり。それはおめでとう。今日はアルビンの家に泊まるから後で遊びにこいよ。ところで今年は何回目の誕生日パーティだい」

                       「アッハッハー」

                        相変わらず明るく、人なっつこい性格は変わっていなかった。

                        夜になると、コヨテーズのメンバー達がアルビンの家に集まって来た。中学生だった子供達は高校を卒業していた。結婚して、子供ができたメンバーもいる。思い出話に花が咲いた。

                        イーグルダンスを踊ったマーロンは、プロのブルライダーになって各地を転戦しているらしい。新人ライダーだけど有望な成績を残しているようだ。村の期待の星である。

                        遅くなって、一人の大きな青年がやって来た。

                       「ハーイ、トミー。覚えているかい」

                        ジョッシュだった。忘れるはずはない。

                       「もちろん覚えているよ。大きくなったなぁ」

                        彼は高校卒業し、銀行に就職していた。村で初めての銀行員だと言う。

                       「ぼくはずっと良い子でいた。日本でもそうできたし、これからもずっとそうして生きていくつもりなんだ」

                       「そうか。がんばれよ」

                        ジョッシュと話していると胸が詰まる。なんでだろう。

                        ジェームスは、クワキュートルの娘と恋に落ちてアラート・ベイに引っ越していた。

                        翌日、彼が村で行っていたキッズ・プログラムの建物にいってみると、大事そうに壁に日本語の表彰状がかかっていた。それにはこう書かれている。

                       「応援パフォーマンス賞」

                        万座のハーリー競争の時のものだった。そういえば彼らはハーリーも勝てなかったのである。でも日本の思い出は大事にしてくれている。それで良い。  

                      瀬底島のリルワット族-4

                      2009.08.17 Monday

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                         前回まで

                        リルワットサッカーチームの日本遠征計画は、長老たちの合意が必要だったが、協議は遅々として進まない。そんなとき村の若者のリーダー、アルビンが来日した。彼にはこの計画を進めるための協力をお願いした。村へ帰るとさっそく連絡が来た。
                        いよいよ計画にゴーサインが出たのである。やがてリルワット族の青年たちは緊張した顔で日本にやって来た・・・


                        「富山、屋我地にある沖縄タイムスの保養所を貸してくれることになったからよ」

                         「ありがとう、照屋。これで沖縄に行けるよ」

                         「それと、沖縄国際大学のサッカー部が試合しても良いってさ」

                         「芝生のピッチは確保できるのかな」

                         「大丈夫みたいよ」

                          照屋はぼくの大学時代の同級生である。30年以上のつきあいになり、沖縄に関わることではいつも彼に助けてもらっている。今回もボランティアでいろいろ助けてもらうことになった。頼りになる友人なのだ。いよいよこれからみんなが楽しみにしている沖縄にむかう。すでに沖縄の空は夏である。

                           

                          結局、本土では「コヨテーズ」はなかなか勝てなかった。2分9敗という成績で佐世保にいた。これから向かう沖縄での試合に、日本遠征の初勝利はかかる。メンバーもなんとか日本食になれて来たようなので、どうしても一勝を挙げてほしい。しかし、寒い国から来た「コヨテーズ」は果たして沖縄の暑い太陽を克服できるだろうか。

                          三人の少年達もすっかり日本になじんでいた。しかし、食べ物は相変わらずマクドナルドのハンバーガーやケンタッキーのフライドチキンが大好物にかわりはなく、それらの店の前を通り過ぎる時は恨めしそうな顔で看板を眺めているのが可愛らしい。その三人の中でジョッシュは一番おとなしい少年だった。いつも何かを大事そうに持っている。

                         「ジョッシュ、それはなんだい」

                         「なんでもないよ」

                          秘密にしておきたいものらしい。

                         

                          照屋からまた連絡が来た。

                         「万座のハーリー競争にでないか」

                         「誰もやったことないけど、大丈夫なの」

                         「あー、問題ないさぁ」

                          海のない村なので、ハーリーは面白い。体力はあるので、ひょっとしたら勝てるかも知れない。みんなの思いでにもなる。

                         「オッケー、相談して出場するから登録しておいてね」

                          ぼくとドライバーの津川君は先に那覇に入り、彼らを迎える準備をすることにした。那覇空港の駐車場にマイクロバスをとめて、宿舎に向かうルートの確認をしているうちに、ぞろぞろとチームのメンバーが出て来た。なんとなく元気がない。沖縄のあまりの暑さに戸惑っているのかも知れない。ほんとにここで、サッカーできるのか心配だ。

                         「沖縄には、危険な生き物がいます。まず、毒蛇のハブ。それから海の中にはハブクラゲとウミヘビがいます。一番危険なのは、沖縄美人です。注意しましょう」

                          どっとバスの中に笑いが広がる。

                         「ヘイ、トミー。最後の危険な生き物はどこにいるんだって?」

                         「バスの外にうようよいるので気をつけてくれよ」

                          せっかくの沖縄だ。少しでも明るい気持ちになってほしかった。

                          

                          屋我地の沖縄タイムスの保養所は木造の古い二階建ての一軒家だった。これがかえって彼らには良かったように思う。自然の少ない日本の風景にすっかり疲れ果てていた「コヨテーズ」のメンバーは、みるみる元気を取り戻しつつあるように見えた。そういえばリルワットの村にはコンクリートの建物はほとんどない。村に戻ったような居心地の良さを感じたのかも知れない。木のある生活は人をリラックスさせてくれる。目の前には遠浅の海が広がり、夜には月を眺めることもできた。夕方になると、庭にバーベキューセットを持ち出し、波の音を聞きながらみんなで晩ご飯を食べる。カナダでは考えられないような暖かい海辺の生活に、沖縄の自然の楽しさを文字通り肌で感じているようだ。ぼくは前にも述べたように、彼らを連れて行きたい所があった。瀬底島のビーチである。そのころはまだ、人気がでる前のビーチだった。いまのように水着の撮影するため撮影隊が順番待ちするなど考えられない。地元の人が時々泳いでいるくらいで、ビーチは閑散としていた。どんなに騒いでもどこにも迷惑をかける心配はない。

                         「明日は休日だ。美しいビーチにみんなを招待するよ」

                          瀬底島のビーチにみんなを連れ出して、見たことのないような美しい海を見せてあげよう。

                         

                          マイクロバスが瀬底大橋にさしかかると、窓の外に見えて来たコーラルグリーンの海の色にみんな驚いて、車内からは歓声があがった。素晴らしい沖縄の光景である。

                          ビーチの横に到着すると、待ちきれなかった子供達が我れ先に飛び出して行った。じゃれ合いながら白い砂に埋もれて歩くのがいかにも楽しそうだ。どの顔にも笑顔が一杯ひろがっている。その様子を見ながら、ぼくたちはモクマオウの林の中にバーベキューのセットをして昼ご飯の準備をすることにした。ビーチの上でバーベキューすると真っ黒い炭が砂に混じり、せっかくの白い砂浜が灰色になってしまって、美しさを維持できなくなってしまうからね。ビーチパーティをするとき、炭のコンロは砂浜を避けて使いましょう。できればガスコンロを使用する方が、沖縄の自然を守る上では良いと思うね。

                          さて、肉を焼いてあたりにおいしそうな匂いが漂い始めると、まずおなかを空かせた子供達が興奮しながら戻って来た。

                         「きれいな魚が一杯泳いでるんだ。初めて見るよ。なんと言う名前なの」

                         「なんであんなに海の色が青いの、なんで砂が白いの、どうして透明なの」

                          質問攻めだ。

                         「ぼくも知らないよ。でもきれいだよね」

                         「トミー、連れて来てくれてサンキュー」

                          肉をパンに挟み、口にくわえながらすぐ海に戻って行った。楽しくて、楽しくて仕方がないようすである。子供達だけではない。チームのメンバーも海の中で大はしゃぎしている。ここでは、肌の色も人種も気にする必要など全くない。心行くまで楽しんでほしい。

                         「リーフの向こう側は急に深くなっているので、気を付けてくれよ」

                         「了解、トミー。心配するな。この肉はうまいぞ、焼き方も上手だ」

                          そのとき海パン姿の二人の白人が現れた。たぶん休暇中の米兵だろうと思う。周りにいたメンバーに緊張が走る。それまでリラックスした雰囲気だったのが一瞬にして重苦しいものになった。ぼくはびっくりした。と同時に、彼らのこれまでの歴史が白人との戦いであったことを思い出した。アルビンはこれまでの歴史のなかで、白人との契約が守られた試しがないといっていた。いわばだまされ続けた歴史でもある。気分の良いはずもない。

                          二人の白人はこちらを見ると去って行った。沖縄には米軍基地があることをみんなに言わねばならない。どうしてこんな楽園のような所に基地があるのか問われるに違いなかった。

                         

                         「ジェームス、走れー!シュートだ。打て、打てー!」

                         「ヒップ。パス出せ、こっちだ。左が開いてるぞ」

                         「ロバート、八番マークだ。戻れー、シュート打たせるなよ」

                          日本遠征最後の試合も、残念ながら沖縄国際大に一対〇で負けてしまう。前半にこちらのパスミスうばわれて、バックスがあわてたところをうまくつかれてしまった。そのあとがんばって攻めたが、どうしても相手のゴールを割るところまではいかない。一年生のチームに変更してもらったものの、とうとう勝てなかった。これで全敗でカナダに戻ることになってしまった。うーん、残念だ。運動能力ではけっしてひけをとらないのだが、技術と組織的な守備力に問題があったように思う。しかし、試合のあとは各地でもそうしたように、学生達とお弁当食べながら交流会だ。試合の結果よりも、こうしてサッカーという共通の話題を持ち、お互いの顔を見ながら話せばいろいろ見えてくるものもある。ところが、日本の大学生達には問題がある。消極的なのだ。試合後の交流を各地で催して来たものの、残念ながら言葉の問題も大きかった。日本の学生が積極的に彼らに話しかけてほしかったが、英語が話せないからなのか、恥ずかしいからなのか今ひとつ盛り上がらない交流会が多かった。片言の英語でもいいから話してくれよ。せっかくの機会じゃないか。

                         

                        結局一つも勝てなかったが、瀬底島で遊ぶリルワットの青年と子供たちの顔は輝いていた。勝ち負けよりも日本各地で交流出来たことはみんなの記憶に残ったに違いない。

                        次回に続く・・・

                        瀬底島のリルワット族-3

                        2009.08.16 Sunday

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                           これまでの話、バンクーバーで知り合った日本人から紹介されたリルワット族の村に、取材で行くことになった。村のサッカーチームが先住民の大会で優勝したことを知り、ひょんなことから日本各地で試合しながら彼らを知ってもらう計画を実行するはめになる。

                          前回からの続き・・・

                          アルビンと東京で再会をする約束をすると、なぜか彼らがすごく身近に感じるようになったのだ。東京にきたらいろんな所を案内してあげよう。

                           

                            さて、その晩は僕たちが泊まっているトレーラーハウスに近所のみんなが集まり、ビールやウィスキーを飲みあかして遅くまで大騒ぎの夜だった。もちろんアルビンの大漁祝いも兼ねてのことである。気が付くとぼくのベッドにはいつの間にか知らないおじさんが寝ていた。しょうがないのでソファーで寝ることにする。明け方になり、犬の吠える声で起こされた。ひどく吠えているので、なんだろうと思ったら、トレーラーハウスの周りに動物のおおきな足跡がたくさん着いていた。初めて見る足跡なので種類が判らない。アルビンに話すと、それはブラックベアーの足跡だ、まだ近くにいるから見に行こうという。驚いた。ブラックベアーはおとなしいので怖くないらしい。おっかなびっくりアルビンの後を付いて行ったら、300mほど先の畑の柵のそばに何か黒い点がうごめいている。熊だ。4、50mまで近づけるという。そっと近づいて行くとこちらに気が付いて後ろの山に駆け上って行ってしまった。ブラックベアーが臆病な性格というのは本当らしい。

                            でも、グリズリーは人間をえさだと思っているから、出会ったら覚悟した方がいいよと脅かされてしまった。そんなものには出会いたくはない。リルワットの村はカナダの大自然と密に共存しているのを実感したのである。

                           

                             二日酔いでフラフラしながら帰国する準備をしていると、突然アルビンが現れ、

                           「トミーに紹介したい奴がこれからくるから」

                            と言う。ほどなく小柄な若者が現れた。ジェームスと名乗り、

                           「子供達に格闘技を教えたいので、日本の武道家を村に呼びたい。協力してくれ」

                           「どうして武道なの?」

                           「白人に負けない強い精神力を子供達に教えたい」

                            彼は村の子供の支援プログラムを立ち上げて、夢の持てない先住民の子供達になんとか誇りや自信を持たせたいのだと言う。力になってあげたいが、武道家に知り合いはいないので、そのときは

                           「日本に戻ったら、いろいろ調べて連絡するから」

                            とだけ話して村を出発した。

                            

                            さて東京に戻ると、根本君から「ASAP友の会」という小冊子がおくられてきた。それには、リルワット村の出来事やカナダ先住民の現状や彼らにまつわるエピソードと援助のお願いなどが書かれている。その中に村の青年たちのサッカーチーム「コヨテーズ」が先住民たちの対抗戦で好成績を収めたので、日本遠征したいというような話が乗っていた。僕は無類のサッカー好きで、高校生の時は和歌山で開催されたインターハイに出場した経験もあった。これなら自分の力でも協力できる。一緒に彼らとボールを蹴るのは楽しいだろう。頭の中でその時のことを想像するとわくわくしてしまう。特にサッカーというスポーツは、世界の共通語といわれるくらいコミュニケーションの手段として優れている。ぼくも世界の各地で言葉が通じない時には、ボールを蹴る人々にまじって一緒にサッカーをする。と、すぐ友人が作れて取材活動もスムーズにいくことが多かった。身を持ってその素晴らしさは知っている。なので、これからスポーツを始めようとする若者にはぜひサッカーやフットサルを勧めたい。ボールが蹴れればどこの国に行っても友達が作れるからね。野球ではなかなかそうはいかない。リルワットの青年達も日本でたくさん友人を作れるに違いない。そんなことで、さっそく根本君に協力を申し出た。

                                 

                            それからが大変だった。リルワットの村では根本君が計画を実現するために、長老たちへの根回しを行うことになった。実は根本君も高校時代サッカー部で、サッカー大好きということだ。彼のやる気にも熱が入る。ところが、先住民の村は長老たちの合議制であることが多い。リルワットの村もそうだった。日本への旅を認めるかどうか、予算はどうするのか、誰を行かせるのか、やきもきする議論は続いた。せっかくの計画も村の長老達が反対すれば実現は不可能である。

                            

                            そんなとき、アルビン達が東京にやってきた。約束通り、再会を果たし僕の家に招待した。そのときは、静岡県裾野市の山の中にログハウスを建てて住んでいたので、何人でも寝泊まりできたのである。アルビンも村の若者と日本の若者のサッカー交流には大賛成であった。村に戻ったら実現に向けて強力に援護するという。

                            その日もアルビンと一緒にビールを飲んだ。彼にログハウスの説明をしている時に、突然立ち上がり太鼓をたたきながら歌いはじめた。

                            「ヘイヨーへイ、ヘイヨーヘイ、ドン、ドン」

                            どうしたのかと尋ねると

                            「ログハウスの丸太がカナダから日本に来て、寂しがっている。だから木を落ち着かせるための歌を歌った。もう大丈夫」

                            それ以来、ログハウスは気のせいか、裾野の山の中にいることを納得したような気がする。

                            彼らと一緒にいると、時々ぼくには見えないものを見せてくれることがある。リルワットの村で、アルビンの家に居候しているワートという青年は、一緒にドライブしていると森の中を指さし、あの木にはイーグルの巣があるといったり、あそこには動物が木の実を溜め込んでいる食料庫のようなものがあるなど、いろいろ教えてくれる。しかし、ぼくの目にはただの森にしか見えない。

                           「ワート、ぼくにはどこにあるかわからないよ」

                            ワートはその度に悲しそうな顔をするだけだった。帰国するとき彼は、お守りだといって動物の牙をくれた。熊の牙だと言う。

                           「お前にはそれが必要だ」

                            日本にはお金があるから世界中のものが集まってくる。けれども、自然の木などのものに宿る心までお金で買えるわけではない。というよりも、そんなことにはだれも気がまわらない。自然のものには精神が宿っていると信じる先住民だからこそ、見えるものがあり歌える歌があるのだと思う。

                           

                            アルビンの協力は心強いけれども、村の状況はどうなってるのだろうか。心配である。

                            「サッカー交流の計画は村の長老達は賛成なのかい」

                            「いまの所なんとも言えないね」

                            アルビンの話では、村の中には改革派と保守派の長老がいてそれぞれが違う意向を持っているのだという。なかなか結論は出ないらしい。アルビンはバリバリの改革派で、若者達には一目置かれているのだが、保守派の長老達には目障りな存在になっているようだった。

                            それでも、アルビン一行が村に戻りしばらくすると連絡が来た。アルビン、根本君、ジェームスの努力で、ようやく「コヨテーズ」の日本遠征は決定した。最初の申し出から一年近くがすぎていた。しかし、ありがたいことに、村の予算も一万カナダドルを使うことが許された。決して豊かな村ではないので、一万カナダドルは大変な金額である。ぼくも緊張した。言い出しっぺは責任重大なのだ。絶対に成功させるぞと強く心に決めた。

                            それからは、あちこちに寄付をお願いしたり、対戦相手を見つけたり、宿泊施設を捜したりと忙しい日が続いた。寄付が集まりはじめ、計画にもなんとかメドがついた。ぼくには日本にやってくるリルワットの青少年達に、どうしても見せたい場所があった。沖縄の海である。計画の最後の週は時間をたっぷり取って、亜熱帯の海を見たことの無い少年たちに、美しい沖縄の風景の中でたっぷり遊んでもらいたかった。彼らの心の中に青い空と白い砂浜とコーラルグリーンの海は、一生日本の思い出として残るに違いない。

                           

                            忘れもしない1996年の6月13日。関西国際空港にリルワットの青少年15人が降り立った。

                            まず、和歌山の新宮で試合をすることになっている。ぼくは東京にいて、その結果を期待して待っていた。しかし、残念ながら4対0で負けたとの連絡が入る。ありゃりゃ、どうやらぼくが考えているほどには「コヨテーズ」は強くないらしい。困ったことになった。このあとの対戦相手は大学のサッカー部などの強豪チームが目白押しだ。あまり弱いと相手にも迷惑をかけることになる。強いチームにはBやCチームを出してもらうとしよう。

                            そして6月18日、いよいよ名古屋駅で彼らと対面する日である。予算が無いので名古屋から次の対戦地、水戸まではマイクロバスで移動だ。移動に大活躍のマイクロバスはボランティアで運転してくれる津川君のおかげで調達できたものだった。感謝、感謝である。

                            「富山さん久しぶりっす」

                            相変わらず汚い格好で根本君が駅から出て来た。元気そうだが、どう見ても日本人には見えない。案内役の根本君をのぞき、チームのメンバーはほとんどが初めて見る顔ばかりだった。村で子供達の支援プログラムを行っているジェームスがリーダーとしてきていた。残念ながらアルビンはいない。ほかに3人の中学生が子供達の代表としてきていた。みんなの顔がなんとなく緊張している。初めて見る日本は、コンクリートだらけの風景で彼らにとって必ずしも住みやすい土地ではないようだ。ぼくの頭の中は、これから事故など起こさずに無事スケジュールをこなして帰りの飛行機に乗せられるか、というようなことを考えていた。青年達の顔を見ていると、とても一筋縄ではいきそうもない雰囲気だったからである。

                            しかし、それは思い過ごしだった。ミニバスに乗り、車中で自己紹介などしながら雑談をしているとだんだん初対面の固さも取れて来て、冗談も出るようになって来た。あとで判ったことだが、村では誰を日本に送るのかという議論がでて、人選にもめたらしい。そのとき一つの基準が決められ、まじめでしっかりした良いやつを送ろうということになったようだ。けっしてサッカーの上手な青年が選ばれて来ている訳ではなかった。バンクーバーの空港では円陣を組んで、日本遠征にいく目的や意味を繰り返し全員にジェームズが言い聞かせ、絶対に問題を起こさないことを誓い合っていたようだ。それを見ていた根本君も、みんなが異常に緊張しているのがわかり、異様な光景だったと話していた。

                          こうしていよいよ先住民サッカーチームと、日本各地に出向きサッカー試合の旅が始まることになった。


                          瀬底島のリルワット族-2

                          2009.08.15 Saturday

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                            「瀬底ビーチから伊江島を望む」

                             水着撮影のメッカとなっていた瀬底ビーチに、カナダから先住民のサッカーチームを連れてきて一緒に遊んだ。

                             前回の続き・・・

                              一口に先住民と言ってもその背景は様々だ。国によっても対応が違う。カナダではリザーブ、アメリカではリザべーションと呼ばれる政府が用意した土地に押し込められ、一人当たりにすると毎月数百ドルの補助金が支払われて生活をしている場合がほとんどなのだ。しかも、カナダではその土地の中で穫れるものでビジネスはできない。村の中を流れる川で魚をとって、薫製にして売ったら罰せられる。自家消費する分に限られているのだ。

                               「先住民の持ってくる食材を買ったら摘発されるんだよ」

                                バンクーバーで日本食レストランをしている友人が話していたことだ。そんな状況なので、なかなか自立して生活することは難しい。何をやるにしても差別や障害がある。それを悲観してアルコールに溺れる者、ドラッグに走る者がでる。若者に自殺者も多いと言われている。

                             

                              北米大陸には七百を超す先住民族の部族があるといわれ、かれらは地域に会わせて特徴的な生活をおくっている。19世紀後半には、エドワード・カーティスという写真家をはじめとして、たくさんの写真家が先住民族を撮影するため、幌馬車に現像道具やカメラを積み込んで北米大陸をまわった。トラベェローグの時代といわれ、未開地を旅して撮影した写真を都会に持ち帰り、旅行記の講演会を開いて一攫千金を夢みていたのだ。彼らはほとんどの部族をカメラに収めており、現在は貴重な記録写真として残っている。カーティスの写真は、アメリカに行くとセピアトーンの先住民写真として、お土産やなどで売っているので見たことがある人も多いだろう。現在は写真に撮られることを嫌がる先住民も多く、撮影禁止の村もたくさんある。気軽にカメラを向けるとトラブルになるので、十分注意した方が良い。

                              

                              ぼくがはじめに訪れたクワキュートル族は、バンクーバー島の北部とカナダ北西岸の一部に住み、サーモンイーターとも呼ばれる鮭を食べる部族だ。そしてこの地方いったいの部族と同じようにトーテムポールの文化があり、レッドシーダーを聖なる木として大事にしている。いまでも木彫の技術は伝承されていて、優れたアーティストを多く生み出している。それにくらべ、コーストセーリッシュ族の仲間であるリルワット族の住む場所は、カナダの巨大な森の中である。溯上してくるサーモンを薫製や風干しにして食べることはあるが、日本人のように生で刺身にして食べる習慣はないし、トーテムポールも彼らの村で見かけたことはなかった。言葉はどこへ行っても英語である。というのも、カナダ政府の度重なるインディアン迫害政策で、独自の言語を話せなくなりつつあるのが現実だからだ。言葉は民族のアイデンティティーといえるもの、大事にすべきである。かつて日本政府もアイヌ民族に対して同じようなことをした過去がある。残念なことだ。

                             

                              クワキュートル族は海がそばにあるので、必然的に生活は漁業を中心とするものになった。ぼくがお世話になった家は鮭の缶詰工場を営んでいた。あたりまえだが他の部族はかならずしもそうではない。

                              たとえば、数年前にアリゾナ北部の山岳地帯に住むホピ族の知人を尋ねた時に、冷凍庫にあったカニでチャーハンを作ってみた。彼らはカニのことをフィッシュと呼び、料理法を知らないまま冷凍庫に入れておいたらしい。ご主人はおいしいといってチャーハンを食べたけれども、奥さんはにおいが臭いといって食べられなかった。話を聞くと、魚など料理したこともないし、料理する気もないと話していた。まるで魚介類には興味が無いようである。

                              砂漠に住む彼らの部族は魚など手に入れても、冷凍技術の無かった頃は料理など難しかったに違いない。ホピ族はトウモロコシが聖なる食べ物なのである。また、アメリカの先住民たちは自分たちの言葉を失わず話す人々もいる。一方カナダではほとんど見かけなかった。先住民族といっても、その生活は国の政策によって違うし、慣習によっても違うものなのだ。北米大陸で少数民族となった彼らは、いまでもいろいろな差別と戦って生きているのである。

                             

                             「村にモーテルとかの宿泊施設はあるの?」

                             「アルビン・ネルソンという人の家に宿泊できますよ。母親のジョジーナさんがご飯とか作ってくれるので、後で挨拶に行きましょう」

                              彼もその家に住み込んでいるという。

                              しかし、部屋は満杯のようだった。そこで庭にあるトレーラーハウスを借りることにする。

                              アルビンはリルワット村の青年たちのリーダーのような存在だった。彼の家には世界中からいろいろな人間が遊びにきていた。先住民族への差別に対し闘う活動家でもある。闘う活動家と言うと怖いイメージを持ってしまうが、普段のアルビンにはそんな面影はない。かえって、明るく冗談好きな性格は魅力的なところで、一度話すと昔からの友人のような気にさせられる好青年である。かつてはボブ・マーリーも村にいたことがあり、一緒に森に遊びに行ったこともあるんだそうだ。

                             「もちろん子供の頃だけど」

                              と彼の自慢の一つらしい。ぼくは数日間の滞在ですっかりアルビンと、リルワットの村が気に入ってしまった。村の中を横切る川には秋のサーモンが溯上しはじめている。先走りといわれるサーモンが体を赤く染め、川の中を泳ぎ回る。この時はカナダの大自然の中に流れるのんびりした時間とその光景に、あらためて魅力を感じずにはいられなかった。アルビンは家の前に流れる川の様子を見て、リルワットレイクに大きなサーモンの集団がいるので獲りに行くんだと張り切っている。

                             「これから何度も遊びにくるけど、いいかな」

                              とアルビンに話すと、

                             「いいとも。じつは今度、北海道に先住民会議で行くので、帰りに東京で会おうよ」

                              日本で再会することになった。


                            次回へ続く・・・