琉球古道
2009.08.31 Monday
モノレールに乗って
2009.08.30 Sunday
ドームの恋活神社
2009.08.26 Wednesday
バンクーバーの朝
2009.08.25 Tuesday
久しぶりの自販機写真です。
2009.08.24 Monday
バンクーバーで見つけました。
2009.08.23 Sunday
写真展ボストカード
2009.08.21 Friday
ちょっと小休止
2009.08.20 Thursday
瀬底島のリルワット族-最終回
2009.08.18 Tuesday
「あのきれいな人は誰?」
「台湾出身のシンガーだよ。ほかにも一杯有名なシンガーがいるよ」
「じゃあ僕たちもその仲間なのかな」
「そういうことだね」
「すごいや」
子供達は周りを見ながら興奮していた。
「次のゲストはリルワットのみなさんです。大きな拍手をお願いします」
いよいよ出番がやって来た。場内のアナウンスはカナダからやって来た先住民たちが民族ダンスと歌うことを紹介している。次々に舞台に駆け上って行くメンバーの顔はさすがに緊張していた。
「ワァーッ、パチ、パチ、パチ」
大きな歓声と、拍手が聞こえてくる。舞台の上にみんながそろった。一瞬静まる会場。
「ドン、ドン、ドン」
リロイの太鼓の音を合図に歌とダンスがはじまった。たぶん、初めて生で見たであろうカナダ先住民の歌とダンスは、沖縄の人々の暖かい拍手が大成功だったことを知らせてくれた。
その夜は喜納昌吉さんと出演者の打ち上げパーティにも顔を出して、メンバー達は一晩中大騒ぎの那覇の夜だった。
いよいよ最終日。メンバーはそれぞれ帰国の準備に忙しい。家族や友人へのお土産を買い求めるために、三々五々と那覇の街に出かけて行った。子供達は留守番である。知り合った日本のガールフレンドに一生懸命電話をかけている奴もいる。うまくいけば良いけどこればかりはどうしようもない。
ジョッシュが寂しそうな顔でやって来た。買い物に行きたいのかな。
「トミー、見せたいものがあるんだけど、ちょっと来てくれ」
ホテルのテラスにあるベンチまできて、
「ここに座っていてくれ、ちょっと部屋までいってくる」
と言い残して姿を消した。小さなバッグを手にして再び現れ、この前は見せようとしなかったプラスチックのケースから写真を取り出した。それは彼の家族の写真だった。
「これはぼくのお母さん、これはお父さん。こっちがみんなで撮った写真だよ。いとこの写真もあるから見せるよ」
次々に自分の血族の写真を広げて説明しはじめた。なぜぼくに見せる気になったのか判らないが、話している彼の顔は真剣だった。一ヶ月にわたる日本の旅でいろいろなことを感じとって、たぶん彼は自分のことを良く知ってもらいたかったのに違いない。彼の言葉を聞きながらぼくも旅の終わりが来たことを悟った。
「ジョッシュありがとう。君のことは一生忘れないよ」
「ぼくもだよ、トミー」
彼らはあっという間に那覇空港から笑顔で去って行った。「コヨテーズ」の日本遠征は成功したのだろうか?飛び去る飛行機を見ながら、考えてみたがその答えが僕には解りようもなかった。
それから4年後、2000年の秋にバスのドライバーをしてくれた津川君と一緒に、リルワットの村を訪れた。アルビンの家を目指し、村の中を走っていると道の中に倒れている男がいる。ヒップだった。酔っているらしい。どうしたヒップ、こんな明るいうちから酔いつぶれるなんて何があったというのだ。
「やあ、トミー。今日はぼくの誕生日だ」
「ヒップ、久しぶり。それはおめでとう。今日はアルビンの家に泊まるから後で遊びにこいよ。ところで今年は何回目の誕生日パーティだい」
「アッハッハー」
相変わらず明るく、人なっつこい性格は変わっていなかった。
夜になると、コヨテーズのメンバー達がアルビンの家に集まって来た。中学生だった子供達は高校を卒業していた。結婚して、子供ができたメンバーもいる。思い出話に花が咲いた。
イーグルダンスを踊ったマーロンは、プロのブルライダーになって各地を転戦しているらしい。新人ライダーだけど有望な成績を残しているようだ。村の期待の星である。
遅くなって、一人の大きな青年がやって来た。
「ハーイ、トミー。覚えているかい」
ジョッシュだった。忘れるはずはない。
「もちろん覚えているよ。大きくなったなぁ」
彼は高校卒業し、銀行に就職していた。村で初めての銀行員だと言う。
「ぼくはずっと良い子でいた。日本でもそうできたし、これからもずっとそうして生きていくつもりなんだ」
「そうか。がんばれよ」
ジョッシュと話していると胸が詰まる。なんでだろう。
ジェームスは、クワキュートルの娘と恋に落ちてアラート・ベイに引っ越していた。
翌日、彼が村で行っていたキッズ・プログラムの建物にいってみると、大事そうに壁に日本語の表彰状がかかっていた。それにはこう書かれている。
「応援パフォーマンス賞」
万座のハーリー競争の時のものだった。そういえば彼らはハーリーも勝てなかったのである。でも日本の思い出は大事にしてくれている。それで良い。
瀬底島のリルワット族-4
2009.08.17 Monday
「富山、屋我地にある沖縄タイムスの保養所を貸してくれることになったからよ」
「ありがとう、照屋。これで沖縄に行けるよ」
「それと、沖縄国際大学のサッカー部が試合しても良いってさ」
「芝生のピッチは確保できるのかな」
「大丈夫みたいよ」
照屋はぼくの大学時代の同級生である。30年以上のつきあいになり、沖縄に関わることではいつも彼に助けてもらっている。今回もボランティアでいろいろ助けてもらうことになった。頼りになる友人なのだ。いよいよこれからみんなが楽しみにしている沖縄にむかう。すでに沖縄の空は夏である。
結局、本土では「コヨテーズ」はなかなか勝てなかった。2分9敗という成績で佐世保にいた。これから向かう沖縄での試合に、日本遠征の初勝利はかかる。メンバーもなんとか日本食になれて来たようなので、どうしても一勝を挙げてほしい。しかし、寒い国から来た「コヨテーズ」は果たして沖縄の暑い太陽を克服できるだろうか。
三人の少年達もすっかり日本になじんでいた。しかし、食べ物は相変わらずマクドナルドのハンバーガーやケンタッキーのフライドチキンが大好物にかわりはなく、それらの店の前を通り過ぎる時は恨めしそうな顔で看板を眺めているのが可愛らしい。その三人の中でジョッシュは一番おとなしい少年だった。いつも何かを大事そうに持っている。
「ジョッシュ、それはなんだい」
「なんでもないよ」
秘密にしておきたいものらしい。
照屋からまた連絡が来た。
「万座のハーリー競争にでないか」
「誰もやったことないけど、大丈夫なの」
「あー、問題ないさぁ」
海のない村なので、ハーリーは面白い。体力はあるので、ひょっとしたら勝てるかも知れない。みんなの思いでにもなる。
「オッケー、相談して出場するから登録しておいてね」
ぼくとドライバーの津川君は先に那覇に入り、彼らを迎える準備をすることにした。那覇空港の駐車場にマイクロバスをとめて、宿舎に向かうルートの確認をしているうちに、ぞろぞろとチームのメンバーが出て来た。なんとなく元気がない。沖縄のあまりの暑さに戸惑っているのかも知れない。ほんとにここで、サッカーできるのか心配だ。
「沖縄には、危険な生き物がいます。まず、毒蛇のハブ。それから海の中にはハブクラゲとウミヘビがいます。一番危険なのは、沖縄美人です。注意しましょう」
どっとバスの中に笑いが広がる。
「ヘイ、トミー。最後の危険な生き物はどこにいるんだって?」
「バスの外にうようよいるので気をつけてくれよ」
せっかくの沖縄だ。少しでも明るい気持ちになってほしかった。
屋我地の沖縄タイムスの保養所は木造の古い二階建ての一軒家だった。これがかえって彼らには良かったように思う。自然の少ない日本の風景にすっかり疲れ果てていた「コヨテーズ」のメンバーは、みるみる元気を取り戻しつつあるように見えた。そういえばリルワットの村にはコンクリートの建物はほとんどない。村に戻ったような居心地の良さを感じたのかも知れない。木のある生活は人をリラックスさせてくれる。目の前には遠浅の海が広がり、夜には月を眺めることもできた。夕方になると、庭にバーベキューセットを持ち出し、波の音を聞きながらみんなで晩ご飯を食べる。カナダでは考えられないような暖かい海辺の生活に、沖縄の自然の楽しさを文字通り肌で感じているようだ。ぼくは前にも述べたように、彼らを連れて行きたい所があった。瀬底島のビーチである。そのころはまだ、人気がでる前のビーチだった。いまのように水着の撮影するため撮影隊が順番待ちするなど考えられない。地元の人が時々泳いでいるくらいで、ビーチは閑散としていた。どんなに騒いでもどこにも迷惑をかける心配はない。
「明日は休日だ。美しいビーチにみんなを招待するよ」
瀬底島のビーチにみんなを連れ出して、見たことのないような美しい海を見せてあげよう。
マイクロバスが瀬底大橋にさしかかると、窓の外に見えて来たコーラルグリーンの海の色にみんな驚いて、車内からは歓声があがった。素晴らしい沖縄の光景である。
ビーチの横に到着すると、待ちきれなかった子供達が我れ先に飛び出して行った。じゃれ合いながら白い砂に埋もれて歩くのがいかにも楽しそうだ。どの顔にも笑顔が一杯ひろがっている。その様子を見ながら、ぼくたちはモクマオウの林の中にバーベキューのセットをして昼ご飯の準備をすることにした。ビーチの上でバーベキューすると真っ黒い炭が砂に混じり、せっかくの白い砂浜が灰色になってしまって、美しさを維持できなくなってしまうからね。ビーチパーティをするとき、炭のコンロは砂浜を避けて使いましょう。できればガスコンロを使用する方が、沖縄の自然を守る上では良いと思うね。
さて、肉を焼いてあたりにおいしそうな匂いが漂い始めると、まずおなかを空かせた子供達が興奮しながら戻って来た。
「きれいな魚が一杯泳いでるんだ。初めて見るよ。なんと言う名前なの」
「なんであんなに海の色が青いの、なんで砂が白いの、どうして透明なの」
質問攻めだ。
「ぼくも知らないよ。でもきれいだよね」
「トミー、連れて来てくれてサンキュー」
肉をパンに挟み、口にくわえながらすぐ海に戻って行った。楽しくて、楽しくて仕方がないようすである。子供達だけではない。チームのメンバーも海の中で大はしゃぎしている。ここでは、肌の色も人種も気にする必要など全くない。心行くまで楽しんでほしい。
「リーフの向こう側は急に深くなっているので、気を付けてくれよ」
「了解、トミー。心配するな。この肉はうまいぞ、焼き方も上手だ」
そのとき海パン姿の二人の白人が現れた。たぶん休暇中の米兵だろうと思う。周りにいたメンバーに緊張が走る。それまでリラックスした雰囲気だったのが一瞬にして重苦しいものになった。ぼくはびっくりした。と同時に、彼らのこれまでの歴史が白人との戦いであったことを思い出した。アルビンはこれまでの歴史のなかで、白人との契約が守られた試しがないといっていた。いわばだまされ続けた歴史でもある。気分の良いはずもない。
二人の白人はこちらを見ると去って行った。沖縄には米軍基地があることをみんなに言わねばならない。どうしてこんな楽園のような所に基地があるのか問われるに違いなかった。
「ジェームス、走れー!シュートだ。打て、打てー!」
「ヒップ。パス出せ、こっちだ。左が開いてるぞ」
「ロバート、八番マークだ。戻れー、シュート打たせるなよ」
日本遠征最後の試合も、残念ながら沖縄国際大に一対〇で負けてしまう。前半にこちらのパスミスうばわれて、バックスがあわてたところをうまくつかれてしまった。そのあとがんばって攻めたが、どうしても相手のゴールを割るところまではいかない。一年生のチームに変更してもらったものの、とうとう勝てなかった。これで全敗でカナダに戻ることになってしまった。うーん、残念だ。運動能力ではけっしてひけをとらないのだが、技術と組織的な守備力に問題があったように思う。しかし、試合のあとは各地でもそうしたように、学生達とお弁当食べながら交流会だ。試合の結果よりも、こうしてサッカーという共通の話題を持ち、お互いの顔を見ながら話せばいろいろ見えてくるものもある。ところが、日本の大学生達には問題がある。消極的なのだ。試合後の交流を各地で催して来たものの、残念ながら言葉の問題も大きかった。日本の学生が積極的に彼らに話しかけてほしかったが、英語が話せないからなのか、恥ずかしいからなのか今ひとつ盛り上がらない交流会が多かった。片言の英語でもいいから話してくれよ。せっかくの機会じゃないか。
結局一つも勝てなかったが、瀬底島で遊ぶリルワットの青年と子供たちの顔は輝いていた。勝ち負けよりも日本各地で交流出来たことはみんなの記憶に残ったに違いない。
次回に続く・・・
瀬底島のリルワット族-3
2009.08.16 Sunday
アルビンと東京で再会をする約束をすると、なぜか彼らがすごく身近に感じるようになったのだ。東京にきたらいろんな所を案内してあげよう。
さて、その晩は僕たちが泊まっているトレーラーハウスに近所のみんなが集まり、ビールやウィスキーを飲みあかして遅くまで大騒ぎの夜だった。もちろんアルビンの大漁祝いも兼ねてのことである。気が付くとぼくのベッドにはいつの間にか知らないおじさんが寝ていた。しょうがないのでソファーで寝ることにする。明け方になり、犬の吠える声で起こされた。ひどく吠えているので、なんだろうと思ったら、トレーラーハウスの周りに動物のおおきな足跡がたくさん着いていた。初めて見る足跡なので種類が判らない。アルビンに話すと、それはブラックベアーの足跡だ、まだ近くにいるから見に行こうという。驚いた。ブラックベアーはおとなしいので怖くないらしい。おっかなびっくりアルビンの後を付いて行ったら、300mほど先の畑の柵のそばに何か黒い点がうごめいている。熊だ。4、50mまで近づけるという。そっと近づいて行くとこちらに気が付いて後ろの山に駆け上って行ってしまった。ブラックベアーが臆病な性格というのは本当らしい。
でも、グリズリーは人間をえさだと思っているから、出会ったら覚悟した方がいいよと脅かされてしまった。そんなものには出会いたくはない。リルワットの村はカナダの大自然と密に共存しているのを実感したのである。
二日酔いでフラフラしながら帰国する準備をしていると、突然アルビンが現れ、
「トミーに紹介したい奴がこれからくるから」
と言う。ほどなく小柄な若者が現れた。ジェームスと名乗り、
「子供達に格闘技を教えたいので、日本の武道家を村に呼びたい。協力してくれ」
「どうして武道なの?」
「白人に負けない強い精神力を子供達に教えたい」
彼は村の子供の支援プログラムを立ち上げて、夢の持てない先住民の子供達になんとか誇りや自信を持たせたいのだと言う。力になってあげたいが、武道家に知り合いはいないので、そのときは
「日本に戻ったら、いろいろ調べて連絡するから」
とだけ話して村を出発した。
さて東京に戻ると、根本君から「ASAP友の会」という小冊子がおくられてきた。それには、リルワット村の出来事やカナダ先住民の現状や彼らにまつわるエピソードと援助のお願いなどが書かれている。その中に村の青年たちのサッカーチーム「コヨテーズ」が先住民たちの対抗戦で好成績を収めたので、日本遠征したいというような話が乗っていた。僕は無類のサッカー好きで、高校生の時は和歌山で開催されたインターハイに出場した経験もあった。これなら自分の力でも協力できる。一緒に彼らとボールを蹴るのは楽しいだろう。頭の中でその時のことを想像するとわくわくしてしまう。特にサッカーというスポーツは、世界の共通語といわれるくらいコミュニケーションの手段として優れている。ぼくも世界の各地で言葉が通じない時には、ボールを蹴る人々にまじって一緒にサッカーをする。と、すぐ友人が作れて取材活動もスムーズにいくことが多かった。身を持ってその素晴らしさは知っている。なので、これからスポーツを始めようとする若者にはぜひサッカーやフットサルを勧めたい。ボールが蹴れればどこの国に行っても友達が作れるからね。野球ではなかなかそうはいかない。リルワットの青年達も日本でたくさん友人を作れるに違いない。そんなことで、さっそく根本君に協力を申し出た。
それからが大変だった。リルワットの村では根本君が計画を実現するために、長老たちへの根回しを行うことになった。実は根本君も高校時代サッカー部で、サッカー大好きということだ。彼のやる気にも熱が入る。ところが、先住民の村は長老たちの合議制であることが多い。リルワットの村もそうだった。日本への旅を認めるかどうか、予算はどうするのか、誰を行かせるのか、やきもきする議論は続いた。せっかくの計画も村の長老達が反対すれば実現は不可能である。
そんなとき、アルビン達が東京にやってきた。約束通り、再会を果たし僕の家に招待した。そのときは、静岡県裾野市の山の中にログハウスを建てて住んでいたので、何人でも寝泊まりできたのである。アルビンも村の若者と日本の若者のサッカー交流には大賛成であった。村に戻ったら実現に向けて強力に援護するという。
その日もアルビンと一緒にビールを飲んだ。彼にログハウスの説明をしている時に、突然立ち上がり太鼓をたたきながら歌いはじめた。
「ヘイヨーへイ、ヘイヨーヘイ、ドン、ドン」
どうしたのかと尋ねると
「ログハウスの丸太がカナダから日本に来て、寂しがっている。だから木を落ち着かせるための歌を歌った。もう大丈夫」
それ以来、ログハウスは気のせいか、裾野の山の中にいることを納得したような気がする。
彼らと一緒にいると、時々ぼくには見えないものを見せてくれることがある。リルワットの村で、アルビンの家に居候しているワートという青年は、一緒にドライブしていると森の中を指さし、あの木にはイーグルの巣があるといったり、あそこには動物が木の実を溜め込んでいる食料庫のようなものがあるなど、いろいろ教えてくれる。しかし、ぼくの目にはただの森にしか見えない。
「ワート、ぼくにはどこにあるかわからないよ」
ワートはその度に悲しそうな顔をするだけだった。帰国するとき彼は、お守りだといって動物の牙をくれた。熊の牙だと言う。
「お前にはそれが必要だ」
日本にはお金があるから世界中のものが集まってくる。けれども、自然の木などのものに宿る心までお金で買えるわけではない。というよりも、そんなことにはだれも気がまわらない。自然のものには精神が宿っていると信じる先住民だからこそ、見えるものがあり歌える歌があるのだと思う。
アルビンの協力は心強いけれども、村の状況はどうなってるのだろうか。心配である。
「サッカー交流の計画は村の長老達は賛成なのかい」
「いまの所なんとも言えないね」
アルビンの話では、村の中には改革派と保守派の長老がいてそれぞれが違う意向を持っているのだという。なかなか結論は出ないらしい。アルビンはバリバリの改革派で、若者達には一目置かれているのだが、保守派の長老達には目障りな存在になっているようだった。
それでも、アルビン一行が村に戻りしばらくすると連絡が来た。アルビン、根本君、ジェームスの努力で、ようやく「コヨテーズ」の日本遠征は決定した。最初の申し出から一年近くがすぎていた。しかし、ありがたいことに、村の予算も一万カナダドルを使うことが許された。決して豊かな村ではないので、一万カナダドルは大変な金額である。ぼくも緊張した。言い出しっぺは責任重大なのだ。絶対に成功させるぞと強く心に決めた。
それからは、あちこちに寄付をお願いしたり、対戦相手を見つけたり、宿泊施設を捜したりと忙しい日が続いた。寄付が集まりはじめ、計画にもなんとかメドがついた。ぼくには日本にやってくるリルワットの青少年達に、どうしても見せたい場所があった。沖縄の海である。計画の最後の週は時間をたっぷり取って、亜熱帯の海を見たことの無い少年たちに、美しい沖縄の風景の中でたっぷり遊んでもらいたかった。彼らの心の中に青い空と白い砂浜とコーラルグリーンの海は、一生日本の思い出として残るに違いない。
忘れもしない1996年の6月13日。関西国際空港にリルワットの青少年15人が降り立った。
まず、和歌山の新宮で試合をすることになっている。ぼくは東京にいて、その結果を期待して待っていた。しかし、残念ながら4対0で負けたとの連絡が入る。ありゃりゃ、どうやらぼくが考えているほどには「コヨテーズ」は強くないらしい。困ったことになった。このあとの対戦相手は大学のサッカー部などの強豪チームが目白押しだ。あまり弱いと相手にも迷惑をかけることになる。強いチームにはBやCチームを出してもらうとしよう。
そして6月18日、いよいよ名古屋駅で彼らと対面する日である。予算が無いので名古屋から次の対戦地、水戸まではマイクロバスで移動だ。移動に大活躍のマイクロバスはボランティアで運転してくれる津川君のおかげで調達できたものだった。感謝、感謝である。
「富山さん久しぶりっす」
相変わらず汚い格好で根本君が駅から出て来た。元気そうだが、どう見ても日本人には見えない。案内役の根本君をのぞき、チームのメンバーはほとんどが初めて見る顔ばかりだった。村で子供達の支援プログラムを行っているジェームスがリーダーとしてきていた。残念ながらアルビンはいない。ほかに3人の中学生が子供達の代表としてきていた。みんなの顔がなんとなく緊張している。初めて見る日本は、コンクリートだらけの風景で彼らにとって必ずしも住みやすい土地ではないようだ。ぼくの頭の中は、これから事故など起こさずに無事スケジュールをこなして帰りの飛行機に乗せられるか、というようなことを考えていた。青年達の顔を見ていると、とても一筋縄ではいきそうもない雰囲気だったからである。
しかし、それは思い過ごしだった。ミニバスに乗り、車中で自己紹介などしながら雑談をしているとだんだん初対面の固さも取れて来て、冗談も出るようになって来た。あとで判ったことだが、村では誰を日本に送るのかという議論がでて、人選にもめたらしい。そのとき一つの基準が決められ、まじめでしっかりした良いやつを送ろうということになったようだ。けっしてサッカーの上手な青年が選ばれて来ている訳ではなかった。バンクーバーの空港では円陣を組んで、日本遠征にいく目的や意味を繰り返し全員にジェームズが言い聞かせ、絶対に問題を起こさないことを誓い合っていたようだ。それを見ていた根本君も、みんなが異常に緊張しているのがわかり、異様な光景だったと話していた。
こうしていよいよ先住民サッカーチームと、日本各地に出向きサッカー試合の旅が始まることになった。
瀬底島のリルワット族-2
2009.08.15 Saturday
一口に先住民と言ってもその背景は様々だ。国によっても対応が違う。カナダではリザーブ、アメリカではリザべーションと呼ばれる政府が用意した土地に押し込められ、一人当たりにすると毎月数百ドルの補助金が支払われて生活をしている場合がほとんどなのだ。しかも、カナダではその土地の中で穫れるものでビジネスはできない。村の中を流れる川で魚をとって、薫製にして売ったら罰せられる。自家消費する分に限られているのだ。
「先住民の持ってくる食材を買ったら摘発されるんだよ」
バンクーバーで日本食レストランをしている友人が話していたことだ。そんな状況なので、なかなか自立して生活することは難しい。何をやるにしても差別や障害がある。それを悲観してアルコールに溺れる者、ドラッグに走る者がでる。若者に自殺者も多いと言われている。
北米大陸には七百を超す先住民族の部族があるといわれ、かれらは地域に会わせて特徴的な生活をおくっている。19世紀後半には、エドワード・カーティスという写真家をはじめとして、たくさんの写真家が先住民族を撮影するため、幌馬車に現像道具やカメラを積み込んで北米大陸をまわった。トラベェローグの時代といわれ、未開地を旅して撮影した写真を都会に持ち帰り、旅行記の講演会を開いて一攫千金を夢みていたのだ。彼らはほとんどの部族をカメラに収めており、現在は貴重な記録写真として残っている。カーティスの写真は、アメリカに行くとセピアトーンの先住民写真として、お土産やなどで売っているので見たことがある人も多いだろう。現在は写真に撮られることを嫌がる先住民も多く、撮影禁止の村もたくさんある。気軽にカメラを向けるとトラブルになるので、十分注意した方が良い。
ぼくがはじめに訪れたクワキュートル族は、バンクーバー島の北部とカナダ北西岸の一部に住み、サーモンイーターとも呼ばれる鮭を食べる部族だ。そしてこの地方いったいの部族と同じようにトーテムポールの文化があり、レッドシーダーを聖なる木として大事にしている。いまでも木彫の技術は伝承されていて、優れたアーティストを多く生み出している。それにくらべ、コーストセーリッシュ族の仲間であるリルワット族の住む場所は、カナダの巨大な森の中である。溯上してくるサーモンを薫製や風干しにして食べることはあるが、日本人のように生で刺身にして食べる習慣はないし、トーテムポールも彼らの村で見かけたことはなかった。言葉はどこへ行っても英語である。というのも、カナダ政府の度重なるインディアン迫害政策で、独自の言語を話せなくなりつつあるのが現実だからだ。言葉は民族のアイデンティティーといえるもの、大事にすべきである。かつて日本政府もアイヌ民族に対して同じようなことをした過去がある。残念なことだ。
クワキュートル族は海がそばにあるので、必然的に生活は漁業を中心とするものになった。ぼくがお世話になった家は鮭の缶詰工場を営んでいた。あたりまえだが他の部族はかならずしもそうではない。
たとえば、数年前にアリゾナ北部の山岳地帯に住むホピ族の知人を尋ねた時に、冷凍庫にあったカニでチャーハンを作ってみた。彼らはカニのことをフィッシュと呼び、料理法を知らないまま冷凍庫に入れておいたらしい。ご主人はおいしいといってチャーハンを食べたけれども、奥さんはにおいが臭いといって食べられなかった。話を聞くと、魚など料理したこともないし、料理する気もないと話していた。まるで魚介類には興味が無いようである。
砂漠に住む彼らの部族は魚など手に入れても、冷凍技術の無かった頃は料理など難しかったに違いない。ホピ族はトウモロコシが聖なる食べ物なのである。また、アメリカの先住民たちは自分たちの言葉を失わず話す人々もいる。一方カナダではほとんど見かけなかった。先住民族といっても、その生活は国の政策によって違うし、慣習によっても違うものなのだ。北米大陸で少数民族となった彼らは、いまでもいろいろな差別と戦って生きているのである。
「村にモーテルとかの宿泊施設はあるの?」
「アルビン・ネルソンという人の家に宿泊できますよ。母親のジョジーナさんがご飯とか作ってくれるので、後で挨拶に行きましょう」
彼もその家に住み込んでいるという。
しかし、部屋は満杯のようだった。そこで庭にあるトレーラーハウスを借りることにする。
アルビンはリルワット村の青年たちのリーダーのような存在だった。彼の家には世界中からいろいろな人間が遊びにきていた。先住民族への差別に対し闘う活動家でもある。闘う活動家と言うと怖いイメージを持ってしまうが、普段のアルビンにはそんな面影はない。かえって、明るく冗談好きな性格は魅力的なところで、一度話すと昔からの友人のような気にさせられる好青年である。かつてはボブ・マーリーも村にいたことがあり、一緒に森に遊びに行ったこともあるんだそうだ。
「もちろん子供の頃だけど」
と彼の自慢の一つらしい。ぼくは数日間の滞在ですっかりアルビンと、リルワットの村が気に入ってしまった。村の中を横切る川には秋のサーモンが溯上しはじめている。先走りといわれるサーモンが体を赤く染め、川の中を泳ぎ回る。この時はカナダの大自然の中に流れるのんびりした時間とその光景に、あらためて魅力を感じずにはいられなかった。アルビンは家の前に流れる川の様子を見て、リルワットレイクに大きなサーモンの集団がいるので獲りに行くんだと張り切っている。
「これから何度も遊びにくるけど、いいかな」
とアルビンに話すと、
「いいとも。じつは今度、北海道に先住民会議で行くので、帰りに東京で会おうよ」
日本で再会することになった。
次回へ続く・・・